一世紀単位の承認欲求 前編

 

私は手紙を書くのが好きだ。

手紙に限らず絵画や文筆、翻訳など形に残すことがたまらなく好きだ。

友人は形を残すようなことは嫌だと言っていた。

考えてみれば、友人のように自分の証が残ることを嫌う人もいる。

では私はなぜ形を残す行為が好きかと言えば、早い話が承認欲求だ。

たとえばいつか私が遺したどれか一つを誰かが見つけて、「あの時代あの場所にこんな人間がいたのだ」と少しばかりエモーショナルな気持ちになってほしい。それが今でなく何十年先でも、私が死んだ後でもいい。むしろ100年先くらいの方がうれしい。

そんな一世紀単位の承認欲求が、文字や絵、音楽に載せて形を残すことへの原動力になっている。

 

 この承認欲求はおそらく高校から芽生え、今まで経験した3度の留学はそれが支えとなっていたから達成出来たことだ。

 現在博士へ進まんと準備を進めているのも、その承認欲求を満たすための一手段とも言える。

 修士課程を修了し、生まれてから四半世紀の年を迎えた今、記念に少し半生を振り返ってみる。

 

 

高校:迫る受験、定まる路線

 私は入学当初から常にだれよりも面白い人間でいたいと願い、どん欲に笑いを求めていた。学年で名を知らぬ者はいないほどに、良くも悪くも「やべぇ奴」として高校生活を謳歌していた。

 ところが3年の春、授業で人生計画なるものを作った際に笑いを取る以上の快感を覚えた。不確定ではあるものの、パズルのように自分の一生を自分で明確に決めていく工程がたまらなく興奮した。今自分が一番したいことを可視化し、さらには実現までのプロセスを導き出すことが出来た。(以来人生計画作りにはまり、毎年微調整しながら更新している。)

 当時、可視化された一番したいことは「留学」だった。   

 そう、思い返せば国際商業系学科への進学は、笑いの天下を取る為ではなく留学ためだった。

 中学時代、英語の先生のお陰で芽生えた留学への憧れ。卒業式に英語の先生に「先生のお陰で英語系の高校へ進学を決めました。」と感謝を述べた時、「え!?英語好きだったの?!」と驚愕していた先生の顔は、今でも忘れない。

 さて、高校では週4で英語の授業を受けていたが、人生計画を立てた当時の成績は英米語学科大学へ進学できるレベルではなかった。

 というよりあれだけ英語漬けにもかかわらず英語が全く話せなかった。これは私の人生七不思議のうちの一つとして刻まれている(笑いの天下に夢中になり、尚且つKドル沼につむじまで浸かって夢小説を書いていたせいだと思われる)。

 この一世一代の危機に夏ごろ気づいた私は、一度立ち止まって「なぜ英語が苦手か」自分に問うてみた。

 小学生のころから英語の本を読んで、就寝時には「グンナイ、マム」と母へ告げていた私に何が起こったのか。

 思えば小学校の英会話的授業形式が肌に合わず、英文法の理解ができていないまま成長していたからだった。

 真相は究明できたものの、基礎英語を復習するのは時間的に難しかった。そこで遂に私は英語を一旦熟成しておくことを決意した。苦手意識のある時にやるべきではないと、未来の私へ英語習得を託した。

 その代わり英語の次に使用されている言語「中国語」を勉強し始めた。英語は小学校から教育が始まるが、中国語であれば大学からはじめの一歩を踏み出すものが多いだろうと考えたためだ。

 習得言語を決めた後は中国語圏への留学がカリキュラムに含まれている大学の推薦枠を取った。高校の半年を使って彼らより半歩先に進む計画は見事成功し、特別推薦枠受験で合格後上級クラスへ入学した。

 

大学:留学、留学、そして留学

 大学では高校とは打って変わって勉強が一番の親友だった。英語とは逆に、基礎から理解できている中国語では新たな知識を蓄えることが快感だった。

 2年時にカリキュラムとして赴いた中国語圏での1セメスター留学は充実していたが、渡航前に誰かから聞いた一言を実感する日々でもあった。

 「留学は3か月でやっと言語に慣れてくる」

 あれだけ勉強で培った語学力は実践を前に無力であった。帰国まであと1か月でやっと語学パートナーと通じ合えた気がした。4か月じゃ足りないと悟った私はここで二度目の留学を検討し始める。

 当時受験可能だった留学は「交換留学制度」と「ダブルディグリー制度」の二種類である。

 前者は半年から一年の期間で単位変換可能な留学、後者は二年の期間で学位を習得できるものだった。

 「ダブルディグリー制度」は急遽薦められたプランだったため、自分の人生計画表には無い先の見えぬものだった。更には受験を留学期間中に行わなければならず、両親へ国際電話を使って相談した。留学中の娘から更なる長期留学の提案をされた両親は不安そうだった。私も両親が大金を支払うことになるこの制度の受験に躊躇いを感じていた。

 やけくそに行った受験結果は、その躊躇いを見透かすように不合格だった。

帰国後は心を入れ替え早急に人生計画を作成し、交換留学の受験準備に取り掛かった。目指すは学費免除生活費全額給付型の奨学金だった。圧迫面接に憤りながらも、第一志望の中国首都に校舎を構える外国語大学へ留学が決定した。

 留学後は日本の大学へ送る月一のレポートや、日々の授業に追われつつ楽しい1年を過ごした。

(ここまで充実した4か月、楽しい一年と2回の留学を簡潔に話しているが、主に人間関係の面で私の価値観を大きく変える出来事が多発していました。そのエピソードは時間がある時にいつか書こうと思います。今言えるのは、留学先で一番気を付けるべきは同じ国籍の人間との人間関係であること。)

 大学4年の冬、留学という高校当時の一番したかったことを終えて、最も大切なのは早め早めの準備と明確な目標までの計画であることを実感した。

 ここまで見てくださっている方々は、「無償で留学できた経緯めちゃくちゃふんわりとしか説明してないやないかい」と思われているかもしれないが、実際早期対策と計画を立てて行動すれば。ふんわりでも無償留学が可能なのである。

 私の場合、金銭的理由と親に頼りたくない気持ちもあったため、大学受験時にカリキュラムに留学を含む大学を選び、給付型奨学金だけを目指して行動した。

 グーグルマップで初めての場所へ向かうとき、最短ルートで歩くために随所での現在地確認は誰しも経験したことがあると思う。

 私の人生計画もマップのように今自分がどんな状況に居て、何をしたいか現在地確認をしながら目標への最適ルートを考えている。

 私は今まで高大ともに推薦受験で入学しているが、人生マップ検索が目的地と自分の長所短所を明確化し、面接官の質問に怖気づくことなく回答できたから合格してきたのではないかと思う。

 面接官は計画書から、受験者が具体的に定めた目標をどこまで確実に達成できるか読み取る。そういった時の為に時折自問自答し、将来の目標を検索して現在地確認することは大いに役立つだろう。

 

 ただし、自分の人生計画において気を付けなければならないことがある。

 「目的地とルートを一つに絞る事」である。

 人生計画はあくまで自分の現在地と最適ルートを知る為の手段であり、将来を決定する未来ノートではない。

 私は大学院受験でこの危険性を大いに実感した一度苦い経験がある。

 

 それでは次回

地獄の遠隔大学院編~おめぇ、もしかして留学ホリックなんじゃあないか?­~

 へ続きます。